「オタク」が体に合わなかったオタク

オタクが体に合わなくてオタクをやめた。


オタクが体に合わないってどういうこと?って思われると思う。ただ言葉通りなのだ。


オタクである自分の心と体が一致しない感覚。


オタクである自分に対する謎の違和感。


リアルイベントやコラボカフェ、アニメイトなどのオタクな趣味を持つ集団の中にいると変な汗をかいたり動悸がしたりする。


同じようなオタクとのコミュニケーションについていけなくて辛い。


…など。


当時はとても楽しかったにもかかわらず、心の違和感だけではなく、体の違和感を感じるようになった。


その挙句に私はオタク活動をやめた。



オタクの心と体の違和感の原因を探るべく、私の過去について簡単にまとめたい。


アニメや漫画を好んで見たり読んだり、グッズを買ったり、ソシャゲでお金を溶かしたり、同人活動を行ったり、ツイッターで出会いオフ会をしたり…。

私はどこにでもいる普通のオタクの女性だったと思う。


…普通なのだろうか。普通とは何かすらわからない。


小さい頃からコレクションしたり、同じ映像を何度も繰り返し見るなどオタク気質だったが、数年前に某女性向けアイドルソシャゲ  の沼に足を踏み入れたことにより、突如、ディープなオタクの世界を彷徨うこととなった。


※ディープなオタクの世界を彷徨い体験したこと

・ソシャゲで推しのSSRが出るまで課金

・推しのSSRが出ず咽び泣く

・二次創作を始め、知らない人と繋がる

・コラボカフェやコラボイベントに足繁く通う

・夜通し推しカプのイメソンを歌うラブホオタク女子会

同人活動を行い女性向け同人誌(成人向けを含む)を数冊頒布する、アンソロジーに参加する

ツイッターで出会ったオタク友達と旅行をする


長年オタク活動を行ってる人にとってはあまりにも普通な内容なのかもしれないが、今までリアルでオタク活動を行わず、家でひっそりと家族にも友達にもオープンにせず一人で楽しむタイプの私にとってはとても濃い体験だった。


ただ、ここ数年のオタク活動は実に趣味にしてはのめり込みすぎていた。気が狂っていたとすら思う。


大学生の分際で毎月何万もソシャゲに課金し、グッズ購入、同人誌発行、帰ったら勉強せず夜明けまで絵を描く。


そんな自堕落で制御不可能なオタク活動をしている中で、知らずの間に心がすり減っていたのかもしれない。


オタク活動に全力を注ぎたかった私は、いつのまにか大学の課題や大学でのコネクション・コミュニケーションを放棄し、入学時の目標だった留学や英語の勉強、資格取得をも投げ出していた。絵や漫画を描くために睡眠・運動不足になり、講義を休むこともしばしば。ゼミの幽霊部員となった。とにかくトッププライオリティは「オタク」、大学での立場は「孤独」。まさに学問を研究することが本分である大学生として「害悪」。


ここまでオタクにプライオリティを空いていた理由は、当時「素晴らしいオタク」になりたいと思っていたからである。ジャンルが好きすぎて。推しが好きすぎて。

愛すべき公式に金を払い、推しに貢ぎ、SNSで推しへの愛を語り、推しのJPEGを金で手に入れ、推しと推しジャンル、推しカプの絵を描き共有することでフォロワーとの推しジャンル愛を共有しながら承認欲求を得る素晴らしいオタクに。


今になって、なんて小さいんだろうと思うが。


顕在的な意識上にはそのような素晴らしいオタクになりたかったのだろうが、無意識下ではもっと別の理想があったんじゃないかと思う。


留学してサークルに入って、たくさん友達を作って、GPA3.0以上とって飲み会に行って、海外旅行に行って、おしゃれな服やブランドの財布を持ってディズニーユニバに行き、スターバックスのコーヒーを飲みながら講義を受けて、ゼミやサークルの合宿に行って資格や検定を取得して公務員試験の勉強をして大手企業一部上場企業に就職して…。


そんなごくごくごく普通の大学生であることへの理想があった。今もある。けれど、もう手に届かない。


しかしながらそれに気づかず、というか無視をし続けることで、無意識下の強いセルフイメージと現実のありのままのイメージ(現実の自分)が乖離し続けた。


それこそが「オタクである自分の心と体が一致しない現象」の原因なのだ。


私は上述の通り、オタクが集まる場所で変な汗をかいたり、オタクの自分に違和感を感じていたが、それらも「オタクであること」の弊害を薄々感じながらオタク活動を続けて心を苦しめ続け、同族である人々と自分を重ね合わせて嫌悪する同族嫌悪の症状であると考える。

これは決して周りのオタクが私みたいな人間であるだとか、周りのオタクも気が狂っているとかではない。やりくりしながら慎ましく賢く、生活とオタク活動をきちんと両立している人もたくさんいる。


私は自己肯定感が低く、当時精神疾患を抱えていて心に拠り所がなく、完璧主義気質だからこそオタクにのめり込みすぎてしまった。


私みたいな人は「オタク活動」を行わないほうがいい。オタク活動は救いである一方で毒にもなる。私は毒の方が強かった。実に甘い毒だった。


私は「オタクであること」の才能がなかったのかもしれない。






現在私はオタクを辞めて、のんびりと暮らしている。就職活動をきっかけにオタク活動が落ち着き、将来のことを考え始めて徐々にフェードアウトしていった。


大学4年生なので卒業要件の単位を拾い集めながら好きなことをして、空き時間には勉強をしている。

勉強は相変わらず嫌いだけど毎日が楽しい。


コロナが落ち着いてからは、親友たちと飲みに行ったり、ピクニックしたりした。最近は筋トレやジョギングを始めて9kg痩せることができた。自己肯定感が高まる。


最近はお金に余裕ができたので脱毛にも通おうと思っている。小さな頃から剛毛なのがコンプレックスだったから。


そして好きな人ができた。今度は二度目のデートに行く。早く会ってたくさん話をしたい。聞きたい。


オタクを辞めてから心が凪いだ。

時間の余裕か、お金の余裕か。


また、とても意欲的になった。

数年前の自堕落な自分を省みて自分に投資したり、欲しいものを素直に買ったり、マイナスをゼロに繰り上げるための行為などはすごく楽しい。


そしてなにより、もうSNSでガチャ報告しなくていいし、絵も描かなくていい、推しカプの件数が増えなくてもいい、同人誌の印刷所の締切に追われることもない。固定化されてた無意識下の義務的なタスクがこんなにもあったなんて、思いもしなかった。


SNSで多くの同じ趣味を持つ人と繋がって交流して、同じ趣味を持つ人がたくさんいる場所にいても謎の孤独感を感じていた。

その一方で知らない人が行き交い二度と会うことのないような東京の街の方が孤独感を感じない。むしろ居心地が良い。


人にもそれぞれ適した居場所があるのだろう。


過去も現在も同じように何かに直向きに頑張っていたことには違いないが、素晴らしいオタクになりたくてお金と時間をオタク活動に注ぎ込んでいたことこそが自らの心の余裕を削ぎ落としていた。私は趣味のやり方がとことんヘタクソだ。どうやら私の居場所はオタク界隈じゃなかったらしい。


とはいえ今でもアニメを見たり漫画を読んだりする、ソシャゲも課金しないもののたまに遊んだり。それはそれで楽しい。


オタクを完全に辞められたわけじゃない。

「再熱」という恐怖すらある。

けれどきっと、また数年前のようにはならない。なれない。


もう自分がどういう居場所にいて、これからどういう居場所を作っていきたいのか、どういう場所こそが安らぎであるのかは何となくわかるのだ。


だから、そこから離れない。

また自分の心と体が乖離しないように。


私は「素晴らしいオタク」じゃなくても大丈夫だった。